MIYAKO Biography


「ヴォイストレーニング®」というと、歌手を目指す人や声優、俳優などのための特別なものと考えている方も多いのですが、この名称を作り、日本で初めて名乗り、職業として確立したのは、私の父・大本恭敬です。
1960年代はじめの事でした。

日本を代表するプロの歌手や俳優を1500名以上輩出し、延べ45万人以上の方に指導している、名実とともに 日本を代表する指導者である父が、「ヴォイストレーニング®」「ヴォイストレーナー®」などの名称を商標登録しております。

そして「ヴォイストレーニング®」は、今では日本中で、一般の方にも通用する名称となり、ビジネスマンから声を使う職業に従事する方、一般の方に及ぶまでが、習ってみたい、身につけたいと思う、習い事のひとつになっています。

 

私は、歌手として活動する傍ら家業である「ヴォイストレーニング®総本山」「ヴォイス・トレーナーズ・アカデミー®」の二代目を継いでおります。

6歳の頃から「ヴォイストレーニング®」(発声指導)の英才教育を受け、現在は、第一線で活躍する「大御所歌手」ヒットチャートを賑わす「トップアーティスト」「ジャニーズ」「宝塚」「人気俳優」、そして「歌手を目指す若い人たち」、また、全国各地で「ヴォイストレーナー®の指導育成」に携わっております。

というわけで、子供の頃から、ふすま一枚隔てたレッスン室には西城秀樹からピンクレディ、岩崎宏美、中森明菜、ジャニーズのトップアイドル、細川たかし、徳永英明、とんねるずや黒柳徹子、松坂慶子、岩下志麻、薬師丸ひろ子といった、日本を代表する、有名な方々が日夜レッスンに明け暮れていました。

毎日テレビで見る有名な人たち、そして大晦日のレコード大賞、新人賞はすべて父の教え子。
また紅白歌合戦の出場者も、ほとんどが、父の弟子という感じでした。

そんな幼少期から、スターの卵たちが大スターへの階段を昇っていく姿を、ずっと見ておりましたので、
「ヴォイストレーニング®」
はもちろんのこと、
「歌う事」
「声を出す事」
「プロフェッショナルはなんたるものか」
「一流とは何なのか」

ということを折に触れてみて育ちました。

【歌との出会い】
小学2年生の時、音楽の先生から全国の小学生音楽コンクールの「独唱部門」へ出場しませんか?と推薦して頂きました。
それまでは、自分が歌う事に対して何も意識していませんでしたが、放課後の音楽室で、大会に出場するための練習を重ねて行くうちに、どんどん『歌』に魅了されて行きました。
気がつけば寝ている時間以外は、いつも歌を口ずさんでいる少女でした。

 

【音楽とのふれあい】
子供の頃は、歌謡曲の全盛期。
音楽番組も多く、子どもからオトナまで知っているヒット曲、名曲が数多くありました。
父が音楽の仕事をしているということもあり、洋楽のLPがいち早く手に入るという恵まれた環境。
休日は父のステレオでこっそりとビートルズからロック、ジャズ、シャンソンまで、幅広く聴いていました。
真夜中に父と兄と一緒に観ていたSoul Trainには、まだ少年だったマイケル・ジャクソンも出演していたのを鮮明に覚えています。

 

【Yumingとの出会い】
小学5年生のときに父からもらったのがYumingのLP「十四番目の月」でした。
美しくドラマティックな日本語の歌詞、どこか賛美歌を思わせる独特な旋律。
Yumingの世界観に惹かれ、気づいたら、私自身も作詞作曲を始めていました。

その後、フォークソングからニュミュージック全盛期になり、日本の音楽業界が大きなうねりをみせ成長していく時代とともに、MIYAKOは青春時代を過ごしました。本当に音楽に恵まれた世代でした。

 

【Jazzとの出会い】
当時、私の自宅には日本の芸能界を代表する大スターやトップアイドル達が、父のレッスンを受けるため、日夜ヴォイストレーニングに通っていました。
また、音楽番組も全盛期で、皆が競って海外の新しいサウンドを取り入れ歌番組で披露したり、アルバムでカバーしたり、リサイタルで唄ったりしていました。
そのレッスンがすべて、ドア一枚隔てた自宅のスタジオで行われていました。
隣のリビングルームで宿題をしながら、その一部始終を聴いて育った訳ですから、自然に覚え、色々なジャンルの歌を唄う事ができまるようになっていました。

中学生のころ、当時の人気女優だった方が出演するミュージカルで唄う曲として持って来たのが、『It’s only a paper moon』。

タイトルの愛らしさ、リズミカルで楽しいメロディラインに魅せられた私は、その曲を中学の創作ダンスで使う事に決めて、父にお願いしてピアノ伴奏のテープを作ってもらいました。
いまでもそのテープは私の宝物。
これが私とジャズの出会いでした。

また余談ですが、父が若かりし頃、米軍のキャンプでジャズを唄う仕事をしていた影響で、歌詞や意味は分からずとも自然に多くのジャズの楽曲に親しんでいたというのも、MIYAKOジャズの原点なのです。

 

【ライブに明け暮れた学生時代】
中学・高校時代は、時間さえあれば作詞・作曲、そしてギターを抱えて歌を唄っていました。
中学では陸上部の練習や協議大会に出場する活発な少女でありましたが、私の気持ち中で「歌」が占める割合は圧倒的で、将来は絶対に歌手になる〜!と決めていました。

いても立ってもいられずフォークソング同好会なるものを立ち上げ、文化祭のステージに立ったり、休み時間や放課後は音楽室で唄っていました。
当時はまだカラオケがない時代でしたから、自宅に帰ると平凡や明星の付録に付いてくる歌本を広げ、独学のギターやピアノで片っ端から演奏し、気づいたら、ものすごいレパートリー数になってました(笑。

高校に進学すると迷わず「フォーク村同好会」に所属。
ギターやピアノの名人がたくさん所属していた、素晴らしい環境でしたので、私はユニットを組みヴォーカル&ギター担当になりました。
ソングライティングの作品作りも充実しオリジナルの楽曲の増えました。
学園祭では教室がいっぱいになるほど友達が聴きにきてくれて、それはいつしか学内の枠を超え、活動は広がっていきました。
ユニットやバンドを組んで、ちょっぴり背伸びしながらも、自分の音楽で多くの人に歌を聴いてもらえる喜びは何にも代え難い素晴らしい経験でした。
そしてポプコンの大会にエントリー出場したり、初めてのレコーディングも経験したりして、私の夢はやっぱり「歌」しかないと確信したのでした。

 

 

【アメリカ留学と歌手への夢】
私の夢は「歌手」になることでした。
8歳の時からずっと、いつか歌手になると信じていました。
しかし、芸能界の重鎮である父は、私の歌手になりたいという夢に反対でした。


驚かれる方も多いのですが
一度も「歌」を教えてもらったことはありません

「歌」を聴いてもらったこともありません
私に「直接指導」することはありませんでした

ただ、私たち家族は本当に仲がよく、父の仕事が終わる10時、11時から揃って食事をするほ(いまでは子供がそんな遅くまで!と怒られてしまいますね)、それぞれが一日あった出来ごとを話し、父の音楽に対する考え、歌手だった頃の話し、そしてもちろん、私がレッスンを聴いて思ったこと、レッスンしていたあの有名な歌手のこと、感想、TVを観ながら、ラジオを聴きながら、歌とは?歌うことでいちばん大切なことは?表現することとは?呼吸の仕方とは?体の響かせ方や使い方とは?音の聴き方とは?書ききれないことばかりですが、哲学を学びました。
正に英才教育です。

ですから、私はますます、大スターたちのレッスンを聴き逃すまいと、毎日レッスン室から漏れ聴こえる、厳しい父の指導を聴きながら育ちました。
子どもながらにして、ヴォイストレーニング®についての基本から応用、大スターの育て方などを見て聴いて、覚え身につけていきました。
その延長で、ピアノもギターも、作詞作曲も独学で覚えたのです。

こうして楽しくて刺激的な青春時代はあっという間に過ぎ、進学という岐路に立った時、私は子どものころからのもうひとつの夢であった「アメリカ留学」を選びました。

そして、大学では音楽ではなく、デザインを専攻しました。
子どもの頃から手先が器用で、デザインに興味を持っていましたので、その道に進みました。

歌手になることはあきらめていません。
「絶対、いつか」
そんな気持ちで毎日を過ごしていました。

 

約束の留学期間が終わり、無事に大学を卒業して帰国。

そして、いざ、働くという段階になって、私の迷いはありませんでした。
「お父さん、私、やっぱり歌手になりたい」
「そうか、じゃ、自分の力でがんばりなさい」

覚悟は決まりました。
当然のことですが、大海原にひとりです。

私は、来る日も来る日も、作詞作曲に没頭し、アルバイトしながら音楽出版社に出入りして、作品を聴いていただいたり、添削していただいたり、デモレコーディンをさせていただきながら、2年ほどが過ぎました。

しかし、当時のシンガーソングライターというと、Yuming、竹内まりや、EPO、大貫妙子、吉田美奈子、男性なら井上陽水、桑田佳祐、吉田拓郎、山下達郎、浜田省吾などなど、いまでも第一線で活躍する、レジェンドばかり。
その方々と肩を並べなくては、評価などされない、厳しい世界です。
新人だからこの程度で良いなんて、そんな甘い世界ではありません。

信じて疑わなかった夢の道でしたが、自信をなくしかけました。
当然のことです。
まったく、実力が及びませんでした。

父からの「人脈の援助」はありません。
自分にチカラがない。
その事実だけが突きつけられました。

 

【デザイナーとして生きる】
夢を追いかけて2年が経った頃、私の中で心の変化がありました。
いつまでも芽がでない、このまま・・・という焦りからでした。
「デザイナーの仕事はどうだろう?」
「そして、仕事をしながら、また、歌手への道を目指そう」
「きっと、いつか歌手になれる」
と・・・・・

それから、運良く業界最大手の繊維会社に就職し、デザイナー、MDとしての頭角を現しました。
会社では、海外買い付け、店舗開発、ショップの商品デザインなどをまかされ、表参道の路面店1Fに100坪のアンテナショップを出店しました。

とても良い経験でしたが、数年も経つと
「好きなことと、できること」
私の中で大きな疑問符が沸いてきました。
これは私の性分なので、仕方がないことです。
一般論ではありません。

ありがたいほど、恵まれた職環境でした。

しかし、デザイナーを辞して、再び自分探しです。

でも、自分探しするなら、歌手への道に舞い戻ればいいのかもしれませんが、私はまだ逃げていました。

そして、退職した翌日、なんというタイミングか、ご縁あって、カウンセリングの仕事に就くことになりました。

 

【カウンセラー、講師、編集者としての新しい生き方】
新しい仕事は、カウンセラー。
人を育てるお仕事でした。

しかし、葛藤がありました。
私のいままでの経験が、何ひとつ、繋がっていないのではないか。
その時、その時の思いつき、出会い、タイミングで進んでいることに対してです。

いまとなって思えば、このカウンセラーの経験がヴォイストレーナー®として活躍する、基盤を築いてくれたのです。
大変ありがたいことです。
でも、それに気づいたのは、もう少しあとになってからでした。

 

私は、進路や夢に悩める方々のお話を伺い、カウンセリングすることを学び、全国で講師としてセミナーで講演し、資料や教材の作成、学校のカリキュラム作成、開講の準備、関係各社との折衝やイベントの企画開催、専門関連の本を何冊も編集したり、広告を作る仕事を任されました。

そうです。
これらすべて、20代の女の子に全面的な信頼を寄せて、任せてくださった栄陽子先生には、いまも感謝の気持ちで一杯です。

ベテランと呼ばれるまでになった或る日、栄陽子先生からディナーにお誘いいただきました。
お話の内容はこうでした。
「あなた、本当はやりたいことあるんでしょう?私の右腕がいなくなったら私は困るけど、あなたの人生、あなたが後悔しないように、おやりなさい。いまなら間に合うわよ」

 

【ヴォイストレーナー®大本京が生まれた日】

私が、ヴォイストレーニング®総本山2代目として歩みだしたのは、今から23年前です。

アメリカの大学を卒業し、デザイナー、カウンセラー、セミナー講師として、まさに第一線でブイブイ働いていた時のことでした。

 

先述のとおり、カウンセラーとして全国で講演しておりました。
ある夏の日、出張で訪れた大阪で乗ったタクシーの運転手さんとの会話です

梅田から伊丹空港へ向かう中、初めて走る高速道路で、夕暮れの美しい空、見る景色が新鮮でした。

なんといっても、高速道路の走行が、とても気持ちよかったのです。

「運転手さん、こんな言い方、失礼だったらごめんなさい。あのぉーとっても運転がお上手ですね。流線形を滑っているような、そんな感じで、ここ、初めて走る道なんですけど、流れる景色眺めて、とても素敵な気持ちになっています」

運転手さんは、バックミラー越しに、ニコニコ話しかける私を見て、こう話しかけてきました。

「大阪はオシゴトですか?」

「はい。講演会でお話をしてきました」

「へ〜講演会ですか。どんなジャンルなの?」

「留学カウンセリングの仕事をしていまして、今からアメリカに留学したいお子さんや親御さんを対象にしたものです」

「夢がある仕事だね〜。いや、僕なんかね、大阪から出たことなくて、運転手の仕事一筋40年ですよ。あはは。でもね、運転っていうか車が好きでね、お客さんを話すのも楽しくて。天職なのかな〜?これしかできないけど、お客さん降りるときにありがとう!楽しかった!って言われるとね、疲れも吹き飛ぶよね。やっぱ好きなんだよね」

「40年ですか!すごいですね」

「最初はさ、こんな一生涯の仕事になるなんて思ってもなかったけど、なんでも続けていれば、最後までやりきったら、その道のプロになれるんだね」

「私も、最近、今から10年、自分が何か突き詰めなければと考えていました。出来ることなのか、やりたいことなのか」

「今のオシゴトじゃないの?」

「本当は歌手になりたかったんですけど、反対されて。自信もなくて。今のお仕事は、評価されてそれなりにやりがいもあるけど、一生のお仕事なのか?と自問すると、違うということはわかっています。だから、いまでもいつか!って歌手になりたい!って思っていますけど、現実は時間がないとかなんとか、言い訳をして、なかなか動き出せないでいます。こんな自分はイヤですね。自分に嘘をついているのが」

「10年なんてね、あっという間だよね。40年だって、ついこの前みたいだよ。息子もふたり結婚して、孫も高校生だし。あはは。人生は長いようで短いからさ、おねえさん、思い切って挑戦したら、きっといい人生になるね。まだ若いんだしさ」

「ありがとうございます。自分が亡くなるときに、自分自身から良い人生だったね、楽しかったね、よく頑張ったね!って、自分が良い人間だったか、悪い人間だったか、思い通りに生きたか、偽って生きたか、全部、自分は知っていると思うと、挑戦しなくちゃですね」

こんな会話をしました。
折しも、栄陽子先生に背中を押されたタイミングと見事に合致していました。
1996年のことです。

 

このあと、私はヴォイストレーナー®の第一歩を歩み始めました。
恵比寿にスクールを立ち上げ、若い人たちを一緒に夢の実現に向けて歩み始めました。

同時に、父・大本恭敬のアシスタントとして、全国の歌謡教室、カラオケ教室の先生方を指導する「ヴォイストレーナー®養成ゼミナール」に帯同しました。
延べ50回以上になりますか。

ここで改めて、ヴォイストレーニング®の帝王学を学びました。
目からウロコの連続で、夢中になって勉強しました。
父を尊敬していましたが、父は神だと知りました。
延べ45万人、第一線で活躍するプロ歌手指導育成1,500名のチカラをまざまざと見せつけられ、私は10年後、自分がどんなヴォイストレーナー®になっているか、10年後を想像しながら、スタートを切りました。

全国の生徒さんと一緒に学びました。
父の教えを噛み締めるように。

10年はあっというまでした。
また、カーネギーホール、ハワイシアター、ハワイコンベンションセンター、韓国ソウルCOEXホール、台北Amigoなど、世界の檜舞台も経験。

そして、次の10年に向かって歩き始め、アラフォーにして念願のメジャーデビューも果たし、人気テレビ番組のレギュラー審査員、著書、セミナーや企業研修、レッスンなどのお仕事までいただけるようになりました。

気がつけば23年。
ぶれずに、学び続けて生きたことが、私自身の財産・肩書き、生き甲斐となっていました。

 

【私が歩く背中を見せるということ〜歌手・ヴォイストレーナー®として】

カウンセラーの仕事をしていたときに、感じたことがありました。

私は、いつもこう話していました。
「私が出来たんだから、あなたも絶対にできるよ」
これは、本当に実感として、言葉にしていました。
留学中の勉強は、ものすごく大変で、逃げ出したくなるほど、もう、このまま目が覚めなければいいとか、地球がなくなってしまえばいいのにとか、そんな極端なことを思う瞬間もあったほど、想像に絶するほど過酷でしたが、勉強がそんなに得意ではない私が、死ぬ気で勉強して、勉強が楽しくなって、コツもつかんで、成績がどんどん上がって、無事に卒業できたことは、奇蹟でもなんでもなくて、最後まであきらめなかったから、逃げださなかったから、それだけなんです。
どれだけの人に支えてもらったか、助けてもらったか、いまでも胸が熱くなります。
ひとりでは、乗り越えられなかったと思います。

だから、その人たちとの
約束を守る。
絶対卒業する。
つまり、途中で投げ出さない。
それだけでした。

カウンセラー3年目くらいの時に、生徒さんの中に、ボストンのBarklee音楽院に留学したいという女の子がいました。
カウンセリングをしていく中で、私は気づきました。
「この子の背中を押してあげながら、励ましながらカウンセリングしているのだけど、結局は自分自身に向かって、私は叫んでいるんだ」と。

そして、この子が夢を叶えるなら、私も叶えなければ嘘だ!と思いました。
彼女は、留学2年目でBarkleeに編入し、卒業後日本に帰国し、見事に歌手デビューしました。

栄陽子先生に背中を押され、大阪のタクシーの運転手さんと出会い、夢を追いかける子供達に出会い。

この3つのきっかけがあって、私が夢の一歩、人生の一歩を歩み始められたのです。
いまでも忘れません。

そして、1997年。
恵比寿に「ヴォイス・トレーナーズ・アカデミー®本校」を開講し、またたく間に、名実共に業界No.1のプライベートスクールとなりました。
私はこのスクールで、若い子達と接しながら、レッスンの他に、得意のカウンセリング経験を生かしながら、叱咤激励を繰り返し、短期間に大勢のメジャーデビューが旅立って行きました。

毎年毎年、面白いほどたくさんの生徒がメジャーデビューし、いまでも多くが第一線で活躍しています。

このカウンセリングで、私が心がけたことはひとつでした。
私の姿を見せるということ。

椅子にふんぞり返って、偉そうにいっても、なんの説得力はありません。
誰よりも必死に学び、歌い、自分を磨く。

この背中を見せるということが、どれだけ大切なことか、身を以て体験しました。

他人は
「MIYAKOちゃんは恵まれた環境だから」
「お父様が有名な方だから」
とか、そういう風に見てくださるのですが、私こそが努力をしなかったら、本当に若い子達を引っ張ってあげることはできないと、心の底から思いました。

あなたならできるよ!
あきらめないで!

これはそのまま、自分への戒めでした。
出来ていない自分だったら、説得力はありません。

開校当初から、生徒さんと一緒にゴスペルを学び、歌い、ステージに立つ。
やがて、作詞作曲の勉強を再開しました。
誰よりも熱心にヴォイストレーニング®を学び、身につけました。

そして、決意しました。

私も歌う!
ということ。

自分自身の歌をイチから見直しました。
1999年のことでした。

ご縁あって、クリエイター小谷隆氏とのユニット「MIYAKO Creative」を結成。
インディーズレーベル「ミュージックパフェ社」より、デビューアルバム「MIYAKO 1999」を発売。
このころから、歌手MIYAKOとしてライブ活動を再開。

誰にも何も言わせない!
これがMIYAKOだという自信と、底知れぬ野望です。
私だけのチカラではありません。
全部、若い子達と接して、共に学ぶ過程で気づかされ、教えてもらったことなのです。
支えてくれた、仲間やスタッフ、家族のおかげなのです。

そして、それから10年が経って、アーティストへの楽曲提供がきっかけで、念願のメジャーデビュー。
2009年のことでした。

 

すでに、当時流行のアラフォーにさしかかっていましたから、歌手としても、女性としても磨きをかけなければ。
誰よりも輝いていなければいけません。
そうでなければ、説得力がありません。
誰にも、笑われないように、でも、必死な姿なんて見せたくない。
静かに静かに、私ができることにじっくり毅然と取り組む。

こうした中で『MIYAKO Style」が生まれました。

多くの方に応援していただき、これがMIYAKOですと胸を張って言える、アーティストMIYAKOが誕生しました。

 

ヴォカルグループ・エクセランド

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