MIYAKO Biography


【歌との出会い】
小学2年生の時、音楽の先生から全国の小学生音楽コンクールの「独唱部門」へ出場しませんか?と推薦して頂きました。
それまでは、自分が歌う事に対して何も意識していませんでしたが、放課後の音楽室で、大会に出場するための練習を重ねて行くうちに、どんどん『歌』に魅了されて行きました。
気がつけば寝ている時間以外は、いつも歌を口ずさんでいる少女でした。

【音楽とのふれあい】
子供の頃は、歌謡曲の全盛期。
音楽番組も多く、子どもからオトナまで知っているヒット曲、名曲が数多くありました。
父が音楽の仕事をしているということもあり、洋楽のLPがいち早く手に入るという恵まれた環境。
休日は父のステレオでこっそりとビートルズからロック、ジャズ、シャンソンまで、幅広く聴いていました。
真夜中に父と兄と一緒に観ていたSoul Trainには、まだ少年だったマイケル・ジャクソンも出演していたのを鮮明に覚えています。

【Yumingとの出会い】
小学5年生のときに父からもらったのがYumingのLP「十四番目の月」でした。
美しくドラマティックな日本語の歌詞、どこか賛美歌を思わせる独特な旋律。
Yumingの世界観に惹かれ、気づいたら、私自身も作詞作曲を始めていました。

その後、フォークソングからニュミュージック全盛期になり、日本の音楽業界が大きなうねりをみせ成長していく時代とともに、MIYAKOは青春時代を過ごしました。本当に音楽に恵まれた世代でした。

【Jazzとの出会い】
当時、私の自宅には日本の芸能界を代表する大スターやトップアイドル達が、父のレッスンを受けるため、日夜ヴォイストレーニングに通っていました。
また、音楽番組も全盛期で、皆が競って海外の新しいサウンドを取り入れ歌番組で披露したり、アルバムでカバーしたり、リサイタルで唄ったりしていました。
そのレッスンがすべて、ドア一枚隔てた自宅のスタジオで行われていました。
隣のリビングルームで宿題をしながら、その一部始終を聴いて育った訳ですから、自然に覚え、色々なジャンルの歌を唄う事ができまるようになっていました。

中学生のころ、当時の人気女優だった方が出演するミュージカルで唄う曲として持って来たのが、『It’s only a paper moon』。

タイトルの愛らしさ、リズミカルで楽しいメロディラインに魅せられた私は、その曲を中学の創作ダンスで使う事に決めて、父にお願いしてピアノ伴奏のテープを作ってもらいました。
いまでもそのテープは私の宝物。
これが私とジャズの出会いでした。

また余談ですが、父が若かりし頃、米軍のキャンプでジャズを唄う仕事をしていた影響で、歌詞や意味は分からずとも自然に多くのジャズの楽曲に親しんでいたというのも、MIYAKOジャズの原点なのです。

【ライブに明け暮れた学生時代】
中学・高校時代は、時間さえあれば作詞・作曲、そしてギターを抱えて歌を唄っていました。
中学では陸上部の練習や協議大会に出場する活発な少女でありましたが、私の気持ち中で「歌」が占める割合は圧倒的で、将来は絶対に歌手になる〜!と決めていました。

いても立ってもいられずフォークソング同好会なるものを立ち上げ、文化祭のステージに立ったり、休み時間や放課後は音楽室で唄っていました。
当時はまだカラオケがない時代でしたから、自宅に帰ると平凡や明星の付録に付いてくる歌本を広げ、独学のギターやピアノで片っ端から演奏し、気づいたら、ものすごいレパートリー数になってました(笑。

高校に進学すると迷わず「フォーク村同好会」に所属。
ギターやピアノの名人がたくさん所属していた、素晴らしい環境でしたので、私はユニットを組みヴォーカル&ギター担当になりました。
ソングライティングの作品作りも充実しオリジナルの楽曲の増えました。
学園祭では教室がいっぱいになるほど友達が聴きにきてくれて、それはいつしか学内の枠を超え、活動は広がっていきました。
ユニットやバンドを組んで、ちょっぴり背伸びしながらも、自分の音楽で多くの人に歌を聴いてもらえる喜びは何にも代え難い素晴らしい経験でした。
そしてポプコンの大会にエントリー出場したり、初めてのレコーディングも経験したりして、私の夢はやっぱり「歌」しかないと確信したのでした。

to be continued…

ヴォカルグループ・エクセランド

PAGE TOP