若き獅子〜西城秀樹さんへ捧ぐ〜2


1971年
広島の高校生だった西城秀樹さんがスカウトされて、上京してきた時は、
ほぼ、家出同然だったというお話はあまりにも有名です。

 

小学生の頃からジャズに親しみ、5年生のときにはバンドでドラムを叩き、
ジェフ・ベックやジミヘン、ローリングストーンズなどに影響され、常に
最新の洋楽に親しんだ少年時代。歌謡曲には興味がなかったそうです。

そんな秀樹さんのデビュー曲は、17歳の少年らしく「青春」そのものを
甘酸っぱく歌い、4曲目シングルまでは、キュンとしたり、時に苦悩して、
励まし合うという応援ソング的要素が強かったと記憶しています。

 

 

 

これがその、4曲目のシングル「青春に賭けよう」。


「え〜これってヒデキの歌だったんだ〜♪知ってるよ〜!」
と意外に思う人もいますが、自然に歌詞もメロディーも、いつの間にか
口ずさんでいる青春ソング。
これ、大好きです。

 

 

そしてついに5曲目のシングルで、ヒデキの片鱗が現れてきました。

激しいアクション、マイクスタンドをブンブンまわし、
「君が望むなら〜」<ヒデキ!
と、ファンの合いの手が入るスタイルが確立されていきました。

 

巷では、「絶唱」「シャウト唱法」などと言われていますが、デビュー
当時はまだ、この歌い方に到達はしていないんです。

 

 

デビュー前からすでに、毎日のように厳しいヴォイストレーニング®を
積んできていましたから、
1)呼吸法
2)共鳴(深い響き)
3)地声からファルセットまで自在
このあたりは準備万端でした。

 

アイドルで初めて大阪球場コンサート!
しかも3時間で50曲。

激しい振付で踊り、走り回りながら歌い通すことができたのも、大本式

呼吸法を身につけたからです(ピンクレディーさんやジャニーズのアイ

ドルさんも)。

当時、口パクなんてありませんから、全部、自分の力で歌います。
すべて呼吸法という基本中の基本を身につけたからほかならないのです。

 

もちろん、生まれながら持ち合わせたポテンシャルが高く、才能豊かな
方でしたから、理解がものすごく早く、次々と自分のものに換えていか
れるというところが秀樹さんの偉大な所です。

 

これはひとえに秀樹さんの努力の賜物なのです。

 

 

 

テレビをつければ歌謡番組が全盛の頃、西城秀樹さんが夜毎にレッスン
に通われていました。
局から局へ、取材から取材へ、早朝から深夜まで地方で公演。
過酷な日々の中でも怠らずに、秀樹さんはデビューしてからプロとして
格段に高いレベルの実力を、ご自身の固い意思と決意で、身につけて行
かれました。

私の記憶の限りでは昼間にレッスンに来られることはなく、たいていは
テレビ収録が終ってから、夕食も食べずにレッスンに来ました。

 

私の母が簡単な夜食を用意して、食べてもらいます。
そして、少し落ちついてから、長く厳しいレッスンが始まります。

 

 

当時は、3ヶ月に1枚のペースで、シングルがリリースされていました。
ある晩のレッスンは、こんな感じでした。

1)写譜さんが届けてくれる楽譜
2)レコード会社のディレクターが届けてくれるオープンリールに吹き
込まれた音源
3)マネージャーが作詞家の先生から預かった歌詞
4)秀樹さん本体(笑
5)ディレクターなどなど
が我家に集結します。

そして、届いたばかりの新曲を覚え、翌日のレコーディングに備えての
本格的なレッスンが始まりました。

 

青春路線から、少し男のにおいが感じられる歌詞、ジャケットに。

 

 

 

先ほども書きましたが、デビュー前にすでにヴォイストレーニング®の
基本的なことは身につけていますから、
どうしたら「西城秀樹」の「個声」を全面に出せるか。

 

プロ歌手としての経験を積んで行く中で、ステージに立ち、ファンとの
交流の中から見えて聴こえて、肌で感じ取って来たもの。
そしてレコード会社やプロダクションのスタッフの考え方。
色々な思惑が渦巻いて行きました。

 

父のレッスンは、
「ヒデキ自身が気づかないと、大きくなれないんだ」
「自分を出せ、恥ずかしがらずに出し切れ」
「もっと、もっと〜!」
「そんなんじゃ誰にも届かない!」
「そうだ〜!
「違う〜バカヤロ〜!!
「何度言ったらわかるんだ!」

まさに、愛のムチでした。
答えを教えるのではなく、自分で気づくまでやらせること。

 

 

やがて、吐き出すように想いのたけを歌にこめて、本気で心で泣きなが
ら歌う、嘘のない歌唱。
その一曲に命を注ぎ込んで、魂をこめた歌が出来上がって行きました。

 

もっともっと!
言われたことをするのでなく、それ以上の答えを出す。
そして、答えが出たとき、まわりのブレーンが誰1人として異議を唱え
ない、「ヒデキの世界」が生まれたのです。

 

3ヶ月ごとにシングルがリリースされ、その都度、大人の男に成長して
いくリアルな秀樹さんも、戸惑いが多かったことと思います。

 

心もカラダも、意識も、すべてにおいて成長期でしたから、声変わりを
した後であっても、ヴォイストレーニング®でさらに太くて良い響きを
伴う、素晴らしい声帯をものにしていくことができたのです。

現に、デビュー曲では、まだまだ子供の音色が見え隠れします。

こういう大切な時期だからこそ、可能性を正しく見極め、引き出し導く
人たちがまわりにいたことは、ヒデキさんにとってラッキーでした。

ですから、ご本人はおそらく、どの歌手よりも長く深い谷底で、もがき
ながら、自らの世界というものを見つけて、それに気づいたからこそ、
「ヒデキ独特の個声」で歌うことに成功したのです。

 

どんなアイドルグループが束になっても、秀樹さんが日本中の人々の心
を震わせたエネルギー、破壊力は、これからも永遠に越える人など現れ
ないのではないでしょうか。

 

教えられただけではない、テクニックだけではない。

 

だから、秀樹さんの歌は作った歌、演技ではなく、心の底、身体中から
絞り出す、あのスタイルになって行くのです。
感情表現とか、そんな薄っぺらな言葉では評価して欲しくない。

 

その殻を破ったからこそ、伝えることができたのです。

 

そして、歌い続けられる呼吸法があったからこそ、45年生涯歌手として、
その地位を確立されたのです。

 

ヒデキスタイルを確立したのは「激しい恋」ではなかったでしょうか。
ここから、一気に大ブレーク!
国民的人気者、大スターへの道をまっしぐらでした。

 

 

そしてついに「傷だらけのローラ」で、それまで若さや
情熱だけだった歌が、本当の愛を知ることになるのです。

 

秀樹さんが「ひとりの男性としての魅力」が歌にも備わってきた。
歴史的一枚です。

 

秀樹さんの逝去後、歌い方がミッックスヴォイスだとか、あそこはこう
いうテクニックで歌っているとか、洋楽の誰かの影響とか、そんな表面
的な事ばかり分析している傾向が多いのですが、秀樹さんが、人生を歌

に賭け会得したものです。
これが本当の歌手の姿であり、ヴォイストレーニング®であり、ヴォー
カルトレーニングの賜物なのです。

西城秀樹さんにしか出せない「個声」の存在感なのです。

 

おまけ。

左から弟、石川秀美ちゃん、西城秀樹さん、河合直子さん、MIYAKO
(たしか高校生くらい)。あ〜はずかしや。

 

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